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2013年7月

2013年7月21日 (日)

恭子がウズベキスタンで学んだこと

日本に残ることになった拉致被害者と北朝鮮に残っていた家族がどこで会うか問題になったことがあった。地元の宮崎でたまたま朝早く目が覚めてTVのスイッチをいれた。家族が北京で会うのに反対しているのは中山参与だけだというニュースが流れた。これはいけないと思い、起きてくれと祈りながら東京に電話した。運よく起きてくるた。もし、北京で会うことになったら、北朝鮮は眠り薬を飲ませてでも強引に家族全員を北に連れ帰り、家族で相談した結果、北朝鮮に住む事に決めたと記者会見させるだろう。それで一件落着と考えていたのではないか。独裁国家では何でもできる、何でもする。それがウズベキスタンという独裁国家ソ連から独立したばかりの国に勤務した中山大使が学んだことであった。恭子はすぐ曽我ひとみさんと連絡をとり、北京以外の処で会いたいというコメントを出した。そして、ジャカルタで会うことになった。平城に迎えに行った恭子は、機内を二つに分け、付いてきた北朝鮮の監視員が家族と接触するのを禁じた。ジャカルタのホテルでも14階を貸し切りにし
て、完全に北朝鮮と遮断した。そしてもう日本の保護下にあるから安心という雰囲気の中でどちらの国を選ぶかを決めさせた。監視員達はエレベーターを蹴飛ばしたり大変だったらしい。 以上、中山恭子の素顔に迫ってみました。私のことが出すぎた感があることをお許し下さい。なお恭子には無断で記憶に頼って書きましたので、あるいは事実と違う点があるかもしれません。長らくお付き合いいただきまして有難うございました。

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2013年7月20日 (土)

日本国として拉致被害者を北朝鮮に返してはならない

拉致担当の官房参与となった中山恭子はたちまち被害者家族の信頼を得た。その代わり、外務省と激しく対立することになった。拉致はテロなのよと言ったら大臣がびっくりしていたと笑っていた。国家という言葉を使ったら周りから変な顔をされたとも。10年前はまだそんな日本だった。大使としてキルギスの人質事件に直面し、たくさんの隣国と国境を接する中央アジアの国々が国家として自国民を守ることに腐心している様をまざまざと見てきた恭子であった。国民を国が守るのは当然の事、それでこそ世界から信頼される国になる、強い信念ができていた。拉致被害者は国として北朝鮮に返してはならないと主張した。本人達から日本に残りたいと言えば北に残った子供達に危害が迫るのだ。平城空港に迎えに行き、機内でこれは拉致被害者を救出する運動のシンボルですとあの青いリボンを差し出すと、全員黙って胸元に付けたという。それんを見て、恭子はみんなの帰国の意志をしっかり受け止めていた。外務省は本当に困ったと思う。返す事を前提に、持って帰るお土産を買う時間までセットされていたのだ。日朝国交回復という大義の前には少数の拉致被害者の犠牲はやむを得ないというのが外務省の本音だった。毎日粘る恭子参与に手を焼いた政府であったが、長年拉致問題に親身に取り組んできた安倍官房副長官が最後に残そうと決断してくれたという。一人の女性の静かなしかし熱い戦いが官邸で続いた。

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2013年7月19日 (金)

ウズベキスタンの桜

ウズベキスタン訪問団の中に、戦後ウズベキスタンに抑留され強制労働させられていた旧日本兵がいた。訪問団とは別行動をさせてほしいと大使に頼み、帰国の夢を果たせなかった仲間の眠る墓地を訪ねた。そして墓地が荒れ果てていると涙ながらに大使に報告した。それを大使から聞いて私は日本で募金活動を始め、たちまち二千万円集まった。それを持って大使がウズベキスタン政府に整備の許可を求めたところ、本来自分たちがやるべきことだったとして、無償で10ヵ所の墓地整備をしてくれた。二千万円はパソコン等の教材を現地の学校に贈るのに遣った。強制労働の毎日を、もう一度祖国の桜を見たいと耐えていたという話を聞いて、日本から桜の苗木を送って墓地の回りに植えた。その話を聞いてウ政府から官庁や大統領官邸の庭に植えてくれということになり、中央公園まで合わせて1900本を植樹した。あれから10年経ち、桜はすっかり大きくなって、毎年3月半ば、日本より少し早くウズベキスタンの人々の目を楽しませている。弱酸性の土壌に合う桜なのでアルカリ性の土壌の改良から始めなければならなかったことを思い出す。墓地の除幕式には麻生太郎現財務大臣をはじめ日本からもたくさんの抑留関係者が集まった。強烈な日差しが照りつける中、誰からともなく「故郷」の大合唱となり、涙が止まらなかった。

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キルギスにおける日本人鉱山技師人質事件

大使として赴任して二週間も経たない頃、ウズベキスタンの隣国キルギスで日本人の鉱山技師4名の人質事件が発生した。犯人は当時まだよく知られてなかったタリバン一味。現地は4千メートル級の山々が連なり、国境があってなきが如き山岳地帯。犯人達はすぐ人質を連れて隣のタジキスタンに移ったが、タジキスタンは中山大使の兼務国だった。

そんな事件が起こっていることも知らない私に深夜2時、恭子から電話が掛かった。「外務省は事件の起ったキルギス政府に任せたからウズベキスタン大使館は動くなというが、犯人達は日本政府が交渉の正面に出てこなければ、明日から一人ずつ撃ち殺すといっている、どうしたらいいだろうか」。日頃は沈着冷静な恭子の声が心なしか上ずって聞こえ、事態の緊迫感が伝わってきた。とっさの事だったが、「在外邦人の生命を守るのは第一に現地の大使の責任だろう、外務本省が何と言おうと、1%の可能性でもある限り最大限の努力をすべきだろう」と答えたが、心底心配だった。

それから約2ヶ月、少数の大使館員は昼夜を分かたず情報収集やお願いに走った。必死に救出に当たる中山大使の話を聞いて、カリモフ、ウズベキスタン大統領がタジキスタン政府に強く要求してくれ、無事救出する事ができた。たくさんの国と国境を接する中央アジアでは、国家として国民を守るのは当たり前のことなのだ。のちに、北朝鮮の拉致被害者は国家として北に帰さないと主張した恭子の原点がここにある。今に至るまで、カリモフ大統領と中山恭子の信頼関係は続き、国連常任理事国入りやオリンピック招致にもいち早く賛同してくれている。

最終場面では恭子大使自らタリバンの集結地に直談判に赴いた。髭面のタリバンが大勢屯しているのを見て、一緒に行った男達は足がすくんで前に進まなかったという。女性は強い、一人でタリバンの司令官と対峙した中山大使だったが、話のきっかけは恭子が国際交流基金の時作製して世界中に配ったあのNHKの朝のドラマ「おしん」のCDだったというから面白い。司令官がアフガニスタンで戦っていた頃に見たという。時差4時間、1日の仕事を終えて家に帰り、10時頃電話してくる。こっちは深夜2時、寝不足になったのも今は懐かしい。

無事解放された人質は長期の拘束で疲労困憊していたにも拘わらず、歩いたり、ヘリコプター、飛行機を乗り継いでキルギスまで連れて行かれ、キルギスで解放されたことにするなど、外務省は最後まで体裁を繕った。NHKのかつての人気番組プロジェクトXに出したいような救出劇だった。

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2013年7月 3日 (水)

日本人の魂

韓国外相が歴史は韓国人の魂だと言って日本人の歴史認識を非難している。厚かましいにも程があるが、それでは日本人の魂とは何だろう。17世紀からの欧米諸国の植民地政策にアジア、アフリカの人々は搾取され、人間扱いされていなかった。日本は幸い、先人の知恵と勇気で植民地にされるのを免れた。古来、権力ではなく権威で治めてきた歴代天皇の下、日本人は公民としての誇りと平等意識が強かった。しかし、明治維新後、不平等条約の改正で難儀し、アメリカの日本移民排斥運動等で差別されるなど、日本人への差別に対する不満が高まっていった。第一次世界大戦後、パリ講和会議で日本は人種差別撤廃を提起したが、米のウィルソン大統領に拒否された。日本が人種差別反対、植民地解放を掲げて大東亜戦争を戦ったお陰で、アジアやアフリカの独立気運に火をつけ、日本は敗れたが、戦後それらの国は次々に独立を果たした。そして、それらの国が晴れて国連等の国際機関に代表を送れるようになった。黒い人々が堂々とレストランなどの公の場に出入りするのを見て、それまで排斥されていたアメリカ国内の黒人達も入れるように主張し始め、公民権運動が起こって選挙権も認められ、ついにはオバマ大統領が誕生するに至った。私がアメリカに滞在した40年前まではまだ黒人差別が色濃く残っていた。今アメリカでは混血が進み色の白い黒人も増えたが、最初は結婚でそうなった訳ではない。男の奴隷は鎖に繋がれ一生独身。白人が黒人の女に産ませた子供は自分の子でも奴隷で奴隷小屋。アメリカ南部に行った時、大きな館の隅に立つ小屋群を見たことがある。日本の江戸時代は商人がお妾さんに産ませた子も出来が良ければ跡継ぎにした。福沢諭吉の有名な言葉「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」、これこそが日本人が本来持っている人間は生まれつき平等であるという気持ちではないか。差別されたとき日本人は怒る。この平等精神こそが世界に誇る日本人の魂ではなかろうか。世界に稀な気高い精神を持つ日本人は自信を持っていい。

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