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2012年12月

2012年12月26日 (水)

いよいよ平成維新

 17日午前1時40分、ようやく当選のテロップが流れ、それまで一喜一憂しながら待っていた熱心な支持者の中から万歳の声が上がりました。たちあがれ日本から太陽の党へ、そして一週間で日本維新の会と目まぐるしい変化の中で選挙準備も大変でしたが、進めていた訪問も郡部は諦めざるを得ず、心残りのまま選挙戦に突入しました。

 4日の宮崎神宮での祈願祭、出陣式とたくさんの方々に集まっていただき、背水の陣でスタートを切った選挙戦でした。しかし、選挙戦3日目には早くも地元新聞に自民党候補優位という記事が出され、私は民主党に次いで3位という評価でした。出ばなをくじかれたような思いでそんな筈はないと打消しながら後援会の人達が諦めてしまったら大変だと心配しながら選挙カーを走らせました。宮崎市内は戸別訪問で全部廻っていましたので、門札や家構え等を懐かしく思い出しながら支持を訴えました。私は主に落ち込んだ宮崎の景気を浮揚させたい、日本経済の再生を果たす役をさせてほしいということを連呼しながら廻りました。たくさんの方が家々から出て来られて強い握手で頑張ってくれと激励され、行き交う車の中からたくさんの手を振られ、勇気付けられながら走り抜けた12日間でした。

 選挙戦終盤、11日には平沼赳夫国会議員団代表、13日には石原慎太郎代表が来宮していただき、たくさんの県民が集まってくれました。マスコミの報道は引き続き、3位という予想が続き(結果もそうでしたが)、疑念を吹き払いながら遊説カー、スタッフ、後援会の皆さんの明るい顔に勝利を確信しておりました。

 最終日、事務所に戻り、帰陣式を行いましたが、まるで凱旋将軍を迎えるような雰囲気ですっかり嬉しくなりました。しかし、投票日当日、自民党候補が優勢だという出口調査の報告もあって、やっぱり報道通りかと思いながら比例代表での復活に期待を持ちながら、開票結果を見守りました。9時ごろには自民党候補の当選が報じられましたが、事務所にたくさんの人が集まって帰らないから、早く出てきてくれと言う連絡があり、夫婦揃って事務所に入りました。宮崎の開票がなかなか進まず、みんな一喜一憂しながら時間が流れました。日本維新の会が九州ブロックで結構善戦しており、民主党を上回る勢いで伸びておりました。私は九州ブロックで何とか4名の確保ができないか、そのためには惜敗率が少しでも少なくなることに期待しながら、もし、日本を守る神様がいるのなら、中山成彬は必ず復活当選できると信じて支持者の皆さん方と長い時間を過ごしました。パソコンに強い支持者が九州の全体の票の流れと惜敗率を遂次報告してくれ、その度に喜びと不安の声が交錯しました。そして、日も変って1時40分になってようやく復活当選が決まり、歓喜の声が上がりました。私はマイクを向けられ、小選挙区で落選したのは悔しいが、比例復活できたのは、それを10倍上回る喜びであると述べました。そして、今、内外的に危機状況にある日本を救う為に死に物狂いで働きたい。もう一暴れするので期待して欲しいと述べました。全国的にも維新が期待したほどには伸びず、自民党の圧勝となりました。民主党が大惨敗し3年3ヶ月にわたり、日々国益を損ね続けた民主党に鉄槌が下されました。

 明治維新は欧米の列強から植民地にされるのを阻止するために起こりました。平成の維新は、維新を立ち上げた人達も自覚していないかもしれませんが、2世紀遅れの帝国主義国家中国との戦いに勝利するために起こりました。明治維新は1853年にペリーが4隻の蒸気船を率いて、浦賀沖に現れたときに始まり1905年日露戦争に勝利したときに終りました。平成維新は尖閣に中国漁船が上陸してきたときに始まり、中国共産党が崩壊したときに終るでしょう。日本が中国に属国化されるのが早いか、中国が内部の混乱によって中国共産党が崩壊するのが早いかにかかっています。「太平の眠り覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」と謳われた様に250年も続いた鎖国政策の中で情報量も少なかったはずなのに、当時の日本人は迫り来る危機を感じ取って長州と薩摩は刃を交えた仲にもかかわらず、坂本龍馬の仲介により薩長連合が結成され、日本を救いました。

 平成の日本人は戦後、続いた日教組による平和教育、自虐教育の中で、日本人としての誇りと自信を失い、平和ボケの中で迫り来る危機にまだ覚醒しておりません。経済的には長引く不況と円高の中で、日本経済はその体力を失いつつあります。長年にわたり、先人達が築いてきた日本経済の基盤が崩れようとしています。私が提唱する起死回生の財政金融政策しかこの国を再生することは出来ないと思います。日本国民全体がこの危機感を早く共有してくれることを祈りながら私は第2ステージの政治活動をスタートします。必ずご期待に応えた仕事をすることを誓います。

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2012年12月 3日 (月)

第二ステージへの決意

 いよいよ明日(4日)公示となりました。政権交代して3年4ヶ月、日々国益を損ねてきた民主党政権をやっと退陣させることができます。マニフェストというにせ証文で、有権者を騙し、子供一人月2万6千円支給するという政党ぐるみの選挙違反で奪った民主党政権でした。今回の選挙で鉄槌を下さなければなりません。

 私はいろいろありましたが、日本維新の会から出馬することになりました。民主党は日本を滅ぼすという見通しのもとに、民主党政権誕生阻止のため、それこそ政治生命を懸けて訴えた私でした。しかし予想したこととはいえ、浪人生活は大変苦しいものでした。献金先も次々に離脱し、いつまで政治活動ができるかと心配しながら過した3年4ヶ月でした。その中で、私を支え励ましてくれた支援者に心から感謝いたします。

 民主党政権でガタガタにされた日本を再生したい、お世話になってきた皆様方にまだ恩返しができていないという思いで生きてきました。地元宮崎をすべて戸別訪問しようという途方もない計画の下に毎日を過してきました。宮崎の旧市内はほとんど廻りました。郡部が人口の密集した町部だけに終ってしまったのはちょっと心残りです。

 ピンポーンと呼び鈴を鳴らし、どういう方が出てくるのかちょっと緊張する瞬間です。時には嫌なことを言われ、心が揺らぐこともありました。しかしドアを開けて「あらっ」という顔で「中山さん」と呼びかけられ、「頑張って下さい」、「宮崎には貴方しかいない」という激励の声にまた元気をとり戻して次の家に向かう毎日でした。

 今、宮崎は本当に景気が悪く落ち込んでいます。企業の方からはいつまで仕事を続けられるのだろうか、お店の人も売上がめっきり減った、飲食業の方もお客さんが来てくれないという悲鳴にもにた声が聞かれます。おばあさんから「年金が減ったのに医療や介護の保険料は上がる、これから先どうなるんだろうかという不安の声や、子供や孫達の就職先がないという声も多くありました。

 民主党政権の公共事業は悪だという政策で宮崎の仕事がめっきり減っています。口蹄疫の処理で分ったように、民主党政権になって宮崎の政治力は地に落ちています。私がやっていた国との太いパイプ役となって国の予算を宮崎に持ってくる人がいないのです。東北大震災や福島原発の事故の復旧復興等、これからの10年間は人も物も金も東北へ向かうでしょう。その中で、「宮崎だけには」と頑張れるのは私だけです。

 私には東九州自動車道を日南から串間、鹿児島へと延ばし、えびの、小林、都城、宮崎と結ぶ南九州環状道路(ベルトウェイ)を完成させるという目標があります。新幹線もフリーゲージトレインを活用して日豊線を走らせたいのです。

 去年3月11日の東北大震災はショックでした。仙台空港が津波にのまれる様子を見て、直ぐ思ったのが宮崎平野でした。津波が押し寄せたら平地に住む人達はどこに逃げればいいのか。私は佐土原から住吉、吉村、赤江、青島の平地帯に10階建てぐらいの高層マンションを建てたらどうかと思います。私の提唱する財源確保で公共事業の一環として防災用のマンションを建てるのです。ベランダを広くし、いざという時は近隣の人を吸収する。補助金によって、安く建て、都会で定年を迎え、毎日退屈しているシルバー層を宮崎に来てもらい、温暖な気候の中でゴルフや釣りや家庭菜園、綾町の工芸などで人生をエンジョイしてもらうのです。病気になった時の為に病院や介護施設も用意する。私が昔から宮崎のシルバータウン構想として温めていたものが、防災という関連から甦ってきました。

 さまざまな構想が頭に浮かびますが、私は中央との太いパイプ役となって地元の首長さん達の要請に応え、宮崎の皆様の暮らしが少しでも良くなるように頑張ります。

 私の政治家としての第一ステージは教育改革と日教組問題の提示で終わりました。いよいよ第二ステージが始まります。日本再生と故郷宮崎の発展のために一身を捧げます。皆様方のご理解とご支援を宜しくお願い申し上げます。

 尚、選挙区外でこのブログを読んでくださっている皆様、どうぞ宮崎県内のお知り合い、友人に中山成彬を頼むという援護射撃をよろしくお願い致します。選挙中はブログの更新ができません。開票後、皆様に有り難うございましたというブログが書けるようにこれから12日間、全力で走り抜きます。

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