« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月26日 (木)

沖縄が危ない

 こんにちは、中山成彬です。

 沖縄県祖国復帰39周年記念大会が去る5月15日(日)嘉手納町の文化センターで850人(主催者発表)を集めて開催されましたので出席してきました。来年の40周年をより盛大に行う為の準備として開催されたものですが、公に祖国復帰を祝う大会として開催されたのは今回が初めてということでした。県民代表として、元小学校教諭の89歳の仲村俊子さんが「今明かされる祖国復帰の真実」として講演されましたが、大変感動的でした。

 日本がサンフランシスコ条約の発効により独立したのは昭和27年4月28日ですが、沖縄が祖国復帰を果たしたのはそれから20年後の昭和47年5月15日でした。

 私は、昭和41年4月、旧大蔵省に入省しましたが、昭和44年から2年間、銀行局総務課で沖縄の本土復帰に伴なうドルと円の交換や琉球銀行や沖縄銀行の本土化に関する作業に携わったのが沖縄との係わりの最初でした。復帰後、昭和50年には沖縄海洋博が開かれるということで、その前年に準備の進展具合を視察に行き、本部半島まで足を延ばしました。

 昭和53年から2年間、主計局の防衛担当主査として防衛予算を担当しましたが、リロケーションと称する国内の米軍基地の整理、統合を進める為、沖縄を頻繁に訪れました。嘉手納基地から飛び立つ爆撃機の大きな胴体と爆音に驚いたことが昨日のことのように思い出されます。防衛担当主査として日本の全領域を実感しようと思い、東西南北の最先端である西の対馬、東の南鳥島(マーカス島)、北の稚内、南の与那国島を視察しました。与那国島を訪問した時、台湾が指呼の間だと聞き驚きましたが、昼食に取れたてのカツオの刺身が出た時、よっぽどビールを所望したかったのですが、勤務時間中ということで遠慮したことを懐かしく思い出します。その与那国も毎年100人位づつ人口が減り、今は1500人を切っているそうで、自衛隊誘致を含め振興策が問題になっています。

 国会議員になってからも、沖縄は頻繁に訪れているので、沖縄の発展振りや人々の暮らしにも関心を持って見守ってきました。この40年間で沖縄は大きく変わりました。道路も良くなり、街並みがきれいになりました。失業率の高いのが心配ですが、観光地としての発展にはかっての新婚旅行のメッカ宮崎県人として、うらやましくも思います。

 ということで、沖縄にはずっと注目してきましたが、その原点となったのは、小林中時代に習った沖縄出身の伊波、新垣、比嘉の3人のそれぞれ立派な先生達でした。沖縄戦を体験された先生達は、時おり沖縄戦の悲惨さを語ってくれました。しかし、反日的な雰囲気は全くありませんでした。そういった背景もあり、なぜ沖縄が変ってきたのかという関心もあり、元小学校教諭仲村先生の心からの叫びをしっかりと受け止めることができました。

 仲村先生の話によると沖縄県は祖国復帰を念願して学校の先生方が先頭に立って運動を続けてきましたが、その手にはいつも日の丸がはためいていたそうです。それがいわゆる70年安保(昭和45年)騒動の中で、安保反対で盛り上がる本土から左翼の工作員がやって来て、沖縄の教職員組合を洗脳し、いつの間にか「日の丸」が「赤旗」に取って代わり、祖国復帰運動が沖縄返還協定阻止運動に変貌していきました。そしていつの間にか沖縄は左翼政権と左翼マスコミに乗っ取られ、米軍、自衛隊抜きの返還を求める左翼勢力が支配するところとなり、反戦、反米の拠点として、今日まで至っているということでした。

 このような復帰反対の運動が高まる沖縄に対して、強行採決までして復帰を実現する大義名分を失いかけていた佐藤内閣でした。そうした中で、仲村俊子さんのもとに「このままでは沖縄の祖国復帰はできなくなる、それでもいいのか」という緊急の電話が本土から入ったそうです。40歳の仲村さん達は教職員組合から脱退し、6名の仲間たちと立ち上がり、署名活動や小集会を実施しました。

 10月30日には那覇市の公園に1千名集めて「沖縄返還協定批准貫徹県民集会」が開催されました。その後、上京し、国会議員や関係者に涙ながらの陳情や街頭宣伝など必死の活動を続けました。そして11月24日、沖縄返還協定批准の衆議院本会議での強行採決に持ち込むことができたという経緯を語られました。仲村氏はさらに、現在の沖縄は当時以上の危機的な状況にあると強く訴えられました。

 菅首相は、「普天間問題は大変だからもう沖縄は独立したほうがいい」という考えの持ち主です。中国は太平洋の西半分を管轄下に置こうとして細長い日本列島の突破を狙っており、尖閣列島に手を出しはじめています。中国の新聞には沖縄は元々中国だとか、沖縄県民を解放しようという論調が出ているそうです。中国はありとあらゆる手段を使って沖縄への工作に余念がないといわれています。沖縄県内には5月15日を屈辱の日と捉え、来年開かれる祖国復帰40周年記念大会や天皇、皇后が来られる「豊かな海作り」大会を阻止しようという動きも出ているといいます。沖縄の2大紙、琉球新報と沖縄タイムズは反日、反米の論陣を張っており、沖縄県民が本当の声を出しにくい雰囲気になっています。

 しかし、ほとんどの沖縄県民が本心から日本から独立しようとか、中国に属することを望んでいるとは思われませんし、思いたくもありません。来年の40周年に向けて、沖縄の祝賀ムードが大きく盛り上がることを期待しています。

 一方、国政はせっかくの日中韓首脳会議で、尖閣問題や竹島問題、北方領土への韓国議員の訪問について何らの抗議もできない菅総理です。あと1年、このままで来年を迎えると、普天間問題をはじめ、沖縄は一体どういうことになるのか、今、日本国民の関心が専ら東日本震災や福島原発に向いていますが、沖縄方面への注目と関心を失ってはならないと痛感しました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年5月18日 (水)

閉塞感

 こんにちは、中山成彬です。

 早いもので、宮崎は桜が散ってつつじも終わり、早期水稲の早苗が水面が見えないほどに生長し、たばこの葉の収穫もそろそろという季節になりました。

 昨年の今頃は口蹄疫の蔓延で宮崎県は本当に大変でした。1年たち、畜産農家の中には新たに牛を導入する動きも始まっています。その方々を訪ねると、家族同様の牛を殺処分しなければならず、長い間落ち込んでいたが、それでも東北地方の被災者の事を考えると、自分たちはまだましだったと口々に言われます。本当にその通りだと思います。先祖代々受け継いできて、自分たちが生涯かけて築いてきた財産を一瞬にして失った方々の心中は察するに余りあるものがあります。さらに又、見たところ何の変わりもないのに、住み慣れた家や故郷を見捨てて避難しなければならない福島原発地区の皆様の無念も計り知れません。

 私も連休明けに被災地を廻ってきましたが、道路以外のガレキはほとんどそのままで、震災以来2ヶ月の空白時間だけがそこにありました。避難されている人々の数も日々少なくなってはいますが、それでも10万人を超える方々が不自由な避難所生活を余儀なくされています。移転先で生活しておられる方々も新しい仕事の目途が立った人は少ないのではないでしょうか。

 被災者の我慢強さ、お互いを思いやる風景は世界から賞賛されましたが、それに甘えてはいけない、我慢にも限度があると思います。復旧、復興のスピードを上げなければなりません。

 福島原発も収拾不能な状況にあるようです。初期の対応が問題になっています。情報隠しも段々と明らかになってきました。国民を動揺させてはならないという政府の指示が徹底していたのでしょうか、当時からマスコミで解説する人達の説明には奥歯に物が挟まったようなものがあったことを思い出します。アメリカやフランスの80キロ外退避とか、国外避難の指示に大げさなと疑問を感じておりましたが、今はその方が正しかったと判明しました。

 この間、菅総理の言動は国民向けのパフォーマンス主体で延命のみが至上命題であることが見え見えでした。真に国民のことを思う一国のトップとしての心と覚悟が伝わってきませんでした。それにしても、浜岡原発の停止は市民運動家としての面目躍如たるものがあります。後先を考えず、その影響を深く配慮することなく、一点集中的に高まる反原発の国民感情を鷲づかみにしました。しかし、福島原発の危険度はほとんどゼロだったのに大事故が起こりました。2,3年後に完全な防災態勢ができるのか、なぜ他の原発は大丈夫だと言い切れるのでしょうか。国内や世界の原子力発電政策に対する影響は考えなくていいのか、今夏を含むこれからの電力不足に対応できるのか。日本の企業が海外移転に走る可能性はないのか。何より鳩山前首相の25パーセントCO2削減という国際公約(?)はどうなるのか。民主党でまとめた原子力発電のシェアーを50パーセントにするという方針はどうなったのか。前出のCO2発言や八ッ場ダム、諫早訴訟の上告断念など、民主党のやり方は民主主義とはほど遠い独裁政治そのものであります。

 当分解散総選挙はできないし、菅降ろしもできないと踏んで、菅総理は居座りを続けるつもりのようです。前にも書きましたが、国家観なき菅首相は、その座に居座り続けることが自己目的化しているのです。一度権力の甘い蜜を吸ったらその味を忘れられないのでしょう。それにしては、テレビ等で映し出される菅総理の表情は段々と自信なげで情けなくなるばかりです。最悪の国難の時に最悪の宰相を戴いた日本国民の不運を思うばかりです。菅民主党政権が続く限り、日本には災難が降り続くような予感がしてなりません。

 自民党は負け過ぎて迫力がありません。民主党の議員も選挙は避けたいということで、台風の目に入ったような妙な停滞ムードに陥っています。日本の為、日本国民の為、菅首相を辞めさせる方策はないものか、無力感に苛まれるこの頃です。

追 伸 
5月15日、沖縄祖国復帰39周年記念大会に出席してきました。当日の様子を後日ご報告致します。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »