2014年9月 2日 (火)

第16回「宮崎未来塾」開講のご案内

残暑の候、皆様には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
さて、下記の要領で第16回目の塾を開講いたします。
今回は、政治・歴史学者で台湾の駐日代表を4年間務められた許世楷先生を台湾から講師としてお招きします。先生は、台湾独立運動にも身を投じられ、30年間日本で亡命生活を過ごされました。中山塾長とは長いお付き合いになります。日本にとって台湾は大事な国(地域)です。台湾から見た日本を存分に語ってもらいます。ご期待下さい。ご多忙のこととは存じますが、又とない機会ですので、廻りの方もお誘いの上、ぜひご参加くださいますようお願い申し上げます。

【日時】  
平成26年9月22日(月)
18:30~

【場所】  
宮崎市民文化ホール 
イベントホール(1F)
宮崎市花山手東3丁目 
TEL0985(52)7722

【講師】
許世楷先生
(元台北駐日経済文化代表処代表)

演題
「台湾の危機から台日関係を考える」

宮崎未来塾
塾長 中山成彬
教頭 永﨑収一

(問い合わせ先)
宮崎未来塾事務局
TEL0985(26)8456


【許世楷氏プロフィール】
1934年7月7日 
台湾彰化市生まれ(80歳)
政治・歴史学者
津田塾大学名誉教授

国立台湾大学卒業後、日本に留学し、早稲田大学政治学修士、東京大学法学博士を取得する。
津田塾大学で助教授、教授として約30年の教員生活を送り、津田塾大学国際関係研究所長も務めた。
日本留学直後の1960年に台湾独立運動団体「台湾青年社」に加入して以来、台湾独立運動にも身を投じてきた。機関紙「台湾青年」にペンネームで数多くの論文を執筆したため、国民党政府により旅券を剥奪、在外反政府分子としてブラックリストに掲載され、約30年間、日本で事実上の亡命生活を余儀なくされた。
1992年、ブラックリストが解除となり帰国。台湾文化学院院長、台湾建国党主席に就任。
2004年、台北駐日代表に就任、約4年間務めた。在任中は、「台湾人観光客のノービザの恒久化」、「運転免許証の日台相互承認」を実現。日台間で年間250万人が相互に行き来するようになった。
現在は、台中市に居住、台中市政顧問を務めている。

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2014年1月16日 (木)

第13回「宮崎未来塾」開講のご案内

明けましておめでとうございます。
皆様には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
さて、下記の要領で第13回目の宮崎未来塾を開きます。
今回は、箱根駅伝・ゴルフ・プロ野球中継等を担当され、スポーツ実況の名アナウンサーと言われた元日本テレビの小川光明氏を講師としてお招きします。小川氏は、現在宮崎に在住され、フリーのスポーツコメンテーターとしてご活動中です。宮崎には退職後移り住む方がたくさんおられます。
 ご多忙のこととは存じますが、お誘い合わせの上、ご参加くださいますようご案内申し上げます。

日時
平成26年1月27日(月) 
18:30~

場所
宮崎市民文化ホール
イベントホール(1F)
宮崎市花山手東3丁目 
TEL0985(52)7722

講演テーマ
「アナウンサー一筋、まだ現役」

講師 
小川 光明 様


宮崎未来塾
塾長 中 山 成 彬
教頭 永 﨑 収 一

宮崎未来塾事務局
TEL0985(26)8456
FAX0985(31)1648


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2013年8月 9日 (金)

第11回「宮崎未来塾」開講のご案内

残暑の候、皆様には益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

 さて、宮崎未来塾は下記の要領で第11回目の塾を開講します。

 今回は宮崎大学准教授・農学博士 河原聡先生をお招きして開講致します。河原先生は農学部に所属され、応用生物科学の研究をされています。また、神話にも造詣が深く、「宮崎の神話」についてお話いただけるものと思います。

 ご多忙のこととは存じますが、お誘い合わせの上、ご参加下さいますようご案内申し上げます。


<日時>
平成25年8月31日(土)
18:30~

<場所>
宮崎市民文化ホール
「イベントホール」
宮崎市花山手東3丁目
TEL0985-52-7722

<講師>
河原 聡 様
(宮崎大学准教授・農学博士)
テーマ
「弥生の神々
~記紀に見る宮崎県~」

<参加申込締切日>
8月28日迄
※事務局までTELまたはFAXにてお申込み下さい。

<問合せ先>
宮崎未来塾事務局
TEL0985-26-8456
FAX0985-31-1648

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2013年7月21日 (日)

恭子がウズベキスタンで学んだこと

日本に残ることになった拉致被害者と北朝鮮に残っていた家族がどこで会うか問題になったことがあった。地元の宮崎でたまたま朝早く目が覚めてTVのスイッチをいれた。家族が北京で会うのに反対しているのは中山参与だけだというニュースが流れた。これはいけないと思い、起きてくれと祈りながら東京に電話した。運よく起きてくるた。もし、北京で会うことになったら、北朝鮮は眠り薬を飲ませてでも強引に家族全員を北に連れ帰り、家族で相談した結果、北朝鮮に住む事に決めたと記者会見させるだろう。それで一件落着と考えていたのではないか。独裁国家では何でもできる、何でもする。それがウズベキスタンという独裁国家ソ連から独立したばかりの国に勤務した中山大使が学んだことであった。恭子はすぐ曽我ひとみさんと連絡をとり、北京以外の処で会いたいというコメントを出した。そして、ジャカルタで会うことになった。平城に迎えに行った恭子は、機内を二つに分け、付いてきた北朝鮮の監視員が家族と接触するのを禁じた。ジャカルタのホテルでも14階を貸し切りにし
て、完全に北朝鮮と遮断した。そしてもう日本の保護下にあるから安心という雰囲気の中でどちらの国を選ぶかを決めさせた。監視員達はエレベーターを蹴飛ばしたり大変だったらしい。 以上、中山恭子の素顔に迫ってみました。私のことが出すぎた感があることをお許し下さい。なお恭子には無断で記憶に頼って書きましたので、あるいは事実と違う点があるかもしれません。長らくお付き合いいただきまして有難うございました。

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2013年7月20日 (土)

日本国として拉致被害者を北朝鮮に返してはならない

拉致担当の官房参与となった中山恭子はたちまち被害者家族の信頼を得た。その代わり、外務省と激しく対立することになった。拉致はテロなのよと言ったら大臣がびっくりしていたと笑っていた。国家という言葉を使ったら周りから変な顔をされたとも。10年前はまだそんな日本だった。大使としてキルギスの人質事件に直面し、たくさんの隣国と国境を接する中央アジアの国々が国家として自国民を守ることに腐心している様をまざまざと見てきた恭子であった。国民を国が守るのは当然の事、それでこそ世界から信頼される国になる、強い信念ができていた。拉致被害者は国として北朝鮮に返してはならないと主張した。本人達から日本に残りたいと言えば北に残った子供達に危害が迫るのだ。平城空港に迎えに行き、機内でこれは拉致被害者を救出する運動のシンボルですとあの青いリボンを差し出すと、全員黙って胸元に付けたという。それんを見て、恭子はみんなの帰国の意志をしっかり受け止めていた。外務省は本当に困ったと思う。返す事を前提に、持って帰るお土産を買う時間までセットされていたのだ。日朝国交回復という大義の前には少数の拉致被害者の犠牲はやむを得ないというのが外務省の本音だった。毎日粘る恭子参与に手を焼いた政府であったが、長年拉致問題に親身に取り組んできた安倍官房副長官が最後に残そうと決断してくれたという。一人の女性の静かなしかし熱い戦いが官邸で続いた。

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